少子化問題を考える

注:本稿は2004年10月16日に開催された帝京大学「秋の公開講座」にて池周一郎助教授(帝京大学文学部社会学科)が「出生力低下と将来推計人口」と題して行った講演を下敷きとし、徳保隆夫が個人的見解をまとめたものです。

少子化問題を考える(2005-08-19)

1.旧ソ連圏では出生数より中絶数の方が多い

Yas さんの記事で紹介されている人工妊娠中絶数の推移が気になりました。少子化情報ホームページからデータを引くと、ビンゴ!

中絶数と出生率の関係

日本の合計特殊出生率は、1950年代に劇的に減少し、以降、安定して漸減しています。私が疑問に思っていたのは、果たして昔の日本人はたくさん子どもをほしいと思っていたのか? ということでした。結論からいえば、答えは No です。1950年代の出生率低下は妊娠中絶手術によるものでした(ちなみに1966年は丙午)。その後、80年代まで低い出生率を維持しつつ中絶数(出生比)が減少していくのは避妊知識の普及によるものでしょう。(050819.xls

主要国の中絶数(出生比)

日本の人工妊娠中絶数は世界各国と比較して大きいのか小さいのか。即断はできませんが、各国の状況を見るに、近年出生比が30%を下回っている日本の中絶数がとくに多いとはいえません。旧ソ連圏では生まれてくる子どもよりも中絶される子どもの方が多い国が目立ちます。

2.日本の少子化問題は未婚・晩婚問題

主要先進国の合計特殊出生率の推移

少子化情報ホームページから辿ることができる膨大な資料群は、日本国政府が長年にわたり少子化対策について研究を進めてきた事実を示しています。そして上図に示す主要先進国の合計特殊出生率の推移から、少子化対策の難しさがわかります。

90年代、北欧の手厚い子育て支援政策が成功例として盛んに喧伝されました。しかし北欧の現状はどうか。スウェーデンでは10年間出生率が上昇しましたが、その後再び減少に転じ、結局、元より悪くなっています。ノルウェーでは反落こそ免れたものの出生率は2未満ですから、人口減少の危機は解決されていない。

少子化問題は、「教室にクーラーがほしい」問題と同じ構造を持っています。「こんなに暑くちゃ勉強できないよ」「先輩方はみな勉強してきたんだよ」「関係ないね、ぼくはクーラーのない教室では勉強できない」そしてクーラーが導入されるが、生徒は勉強熱心にはならない。子育て支援政策に大きな需要がある事実は、その実現が少子化を解決することを保証しません。欧州各国の挑戦は子育て支援の費用対効果に疑問を投げかける結果を導きました。

夫婦あたりの完結出生児数

じつは日本における夫婦あたりの完結出生児数は、少なくともこの20年間、全く変化していません。20年前の日本の出生率は現在の北欧諸国と同等ですから、日本の少子化問題とは、未婚・晩婚問題といえます。少子化対策が主要な政策論点とならないのは、恋愛・結婚への国家権力介入に需要がなく、人気のある子育て支援策は費用対効果に疑問符がつくためです。予算に限りがある以上、老人、病人、貧窮者らの支援を抑制するだけの根拠がなければ、大きな予算は確保できません。

3.少子化を統一的に説明する仮説はない

以下は大雑把な状況整理です。資料は少子化統計情報など。

日本で未婚化・晩婚化が進む要因は明らかでない。未婚・晩婚の理由は調査されていますが、昔からその内容には大きな変化がない。近年、ドイツ、イタリアの出生率は上昇に転じていますが、福祉政策に大きな変化はありません。

日本の人口推移

日本人は急激に増え過ぎました。戦後の人口倍増は急速な経済発展の原動力ですが、伝統的価値観の崩壊と世代間の断絶を生んだ根本原因でもあります。人口の減少は短期的には大きな痛みを伴いますが、長期的には適正な社会規模を目指す自然な営みなのかもしれません。

参考書籍:日本の少子化論議は生活改善闘争

少子化社会白書 (平成16年版) 高齢社会白書〈平成16年版〉 人口減少社会、未来への責任と選択―少子化をめぐる議論と人口問題審議会報告書 人口の動向日本と世界―人口統計資料集 (2005)

この4冊はお勧めできます。

社会保障を問いなおす―年金・医療・少子化対策 論争・少子化日本 だれが未来を奪うのか―少子化と闘う 少子化をのりこえたデンマーク

こちらの4冊はよく売れていますが、いずれも「教室にクーラーがほしい」問題を念頭において読むべきです。

破産する未来 少子高齢化と米国経済

日本に遅れること約30年、2030年頃に少子・高齢化の大波に襲われるアメリカ合衆国の様相を解説。

「主観的に不幸な人々」の少子化問題(2005-12-27)

第2の人口転換

私の根本的な疑問は、「なぜ昔の日本人(アメリカ人でも欧州人でもよい)はたくさんの子どもを生み育てていたのに、経済・社会が発展するにつれて出生力が低下したのか?」というものです。いつの時代も子育ては負担だったし、そして私の見てきたデータの中に、理想子ども数を達成できたケースはありません。人口増に悩む発展途上国の親さえも、より多くの子をほしがっており、コンドームの無償配布は期待された成果を上げていない(参考:エコノミスト 南の貧困と闘う)。

貧乏で子どもが飢える時代は過ぎ去り、現代の日本では数人の子どもに飢えない程度の食事を与え、義務教育を受けさせることは不可能でない。大家族を取材したテレビのドキュメンタリー番組を見ての通り、子ども1人につき月1〜3万円の追加出費で足ります。しかしたいていの人は、自分も真似して大家族を作ろうとは思わない。多額の教育費を計上し、お金が足りないと悩む。

いわゆる少子化対策に疑問を抱くのは、子育て環境の水準上昇圧力に対して無策なことです。私が生まれた1980年頃の日本の合計特殊出生率は、成功例とされる現在のフランスや北欧諸国と同等ですが、当時の子育て環境が充実していたわけではない。要求のエスカレートを放置すれば、少子化対策は全て気休めにしかならない。

高齢化社会の再設計

私は第2の人口転換は不可避の事象と考えています。先進諸国が少子化には介入せず児童・家族政策に注力するのも同様の発想によるものでしょう。人口減自体は問題視しない。しかし高齢化の進展は重大な問題です。悲観論が根強いのですが、原田泰さんの「奇妙な経済学を語る人びと」は楽観的ながら説得力がありました。

私なりの理解を加味してまとめると、まず現在の状況を延長すると先に待つのは破綻です。年金支給額の抑制と支給開始年齢の引き上げは必要不可決。ただし大半の高齢者が自活労働者となれば、問題は劇的に縮小されます。そのためには景気回復+賃金抑制+雇用大幅増が必要です。65歳以上は年金生活者という常識を変え、元気な間は死ぬまで働くのが当たり前、との意識をみなが持たねばなりません。

とはいうものの、そもそも少子化の理由が豊かさの追求によるもので、その点を改善し得ないのだとすれば、高齢化問題の解決だって不可能です。景気が回復して仕事が増えたとき、残業で吸収したり、高給で有能な人材を確保する高賃金+低雇用路線では、老人は失業し続ける他ない。老人を職場から追い出し、忙しく仕事して高給を得ても、結局、税金と年金と保険が高くなるだけなのですが……。

1990年頃、子ども部屋にクーラーのある家は珍しく、携帯電話やパソコン、全自動洗濯機が普及したのもバブル後でした。それなのに、主観的な生活水準は低下し続けているらしい。生活水準は緩やかに向上しているのに、欲求を抑制できずに募る不満。

足るを知らない「主観的に不幸な人々」の高望みが、少子化の進展と高齢化による社会保障の破綻を招く。時間差による猶予の中で、私たちは生きています。多少の出生力回復では逃げ切れない。時間稼ぎも必要ですが、もっと大切なことがあるのではないでしょうか。

補記

日本の少子化は未婚化晩婚・晩産化が直接原因です。フランスの出生力回復が婚外子の激増とセットだったことには注目していい。多分、女性が子どもを産みやすい環境を作り、結婚と出産・育児を切り離す社会文化が育つと、出生力が(いくらか)回復するのだと思う。

仮に出産・育児の価値を無視すると、女性の生涯賃金減少分+育児費用を全額補填しなければ少子化問題の金銭的解決は不可能で、その金額は現在の通貨価値で1人あたり数千万円。現状の児童手当は月0.5〜1万円……。原田さんの本はきちんとそこから話を始めており hankakueisuu さんにもお勧め、かも(図書館をご利用ください)。

まとめ(2006-01-13)

たんぽぽさんの問題意識は理解できます。ともかく現在、多くの人々がかなり高い水準の生活を「最低ライン」に設定しており、しかもラインが下がる望みはない。また経済成長に伴い労働環境が改善されたこともあり、労働に対する考え方も変化しつつあります。したがって共働き志向が強まるのは当然なのに、社会の仕組みが追いついていない。出生力回復のためには、女性が子どもを産みやすい環境の整備が必要だ……。

こうした主張に、異論はありません。ただ、私は「現実が理想に追いつくことはないだろう」とも考えます。予算の制約の中で、ある程度の「少子化対策」を行うことには賛成しますが、人々がどこかで「満足」しない限り、人々が幸せな生活を送る日は来ません。理想と現実の相対的な比較ではなく、絶対評価で日本国民の生活環境を見るならば、明らかに改善が進んでいる事実を見つめるべきです。

理想の上昇には歯止めがないのに対して、現実の施策には制約が多い。とくに出生力低下の直接原因である恋愛・結婚問題について政府にできることはほとんどないし、この方面へ戦線を拡大するべきでもないと思う。少子化対策に限界があることは明らかです。超少子高齢化社会は必ず到来します。不可避な未来への対処を考えることが、今、真に重要なのです。

余談・雑談・補遺

「反対論の検討」への回答(2005-12-28)

「主観的に不幸な人々」の少子化問題では個別具体的な指摘にはお応えしていなかったので……。

最初にお断りしておきますが、私は少子化対策に反対なのではなく、その費用対効果に懐疑的なのです。やればやるほど人々の不満が解消されるだろう、という意味では基本的には賛成なのです。ただ、「少子化対策」としてどうなのか、そして乏しい予算をやりくりする中で、他の何を削って大きな予算をつけるべきか、そのあたりが対立点なのではないでしょうか。

フィンランドは、90年代のはじめに不況に見舞われ、それ以降、これといった、子育て支援対策がなかったことが、出生率が増えない原因と思われます。

フィンランドと書いたのは、スウェーデンの間違いでした(→訂正済)。元の統計を見ても、フィンランドのデータはありません。

さてスウェーデンの育児休業制度は現在も世界トップクラスです。不景気のため他の支援策が後退したのかもしれませんが、残った制度もあるようですね。スウェーデンの事例は、出産促進策が一時的に奏功したかに見えたものの、実際には特定の世代が出産時期を前倒ししたに過ぎず、長期的には出生力が回復していないのではないか? という観点から注意を喚起されることが多いようです。つまり、大規模な支援策が志向された直後数年間の出生力上昇を「成功」と即断すべきでない、と。逆にいえば、90年代末に80年代よりも状況が悪化したこともまた一時的成功の一時的反動に過ぎないとも予想されるわけで、2010年頃までの推移には要注目でしょうね。

(イタリアは知らないですが)、ドイツは、90年代の中ごろから、男女同権法の施行、優生保護法の改正、税制や育児手当て、休暇制度の改正と、いくつかの政策が行なわれています。これらが、出生率の上昇につながったのでしょう。

ご指摘の政策メニューは政権与党が中道右派でも中道左派でも関係なく政治日程に乗る「規定路線」だったので、福祉政策に大きな変化はありませんと書きました。実際、メルケル首相もそれらの政策をひっくり返すことは考えていない様子。失業対策などは見直されるようですが……。ともあれ歴代政権の努力が実ったのであれば、それはよいことだと思います。

20年前(80年代)は、日本はなおさらですが、北欧でも、少子化のための対策は、まだほとんどありませんでした。それで状況が似ていた、というだけだと思います。

私は20年前の日本と現在の北欧の合計特殊出生率がほぼ同じだと指摘したのです。20年前の北欧については何もいっていません。

アメリカや北欧の状況が、結婚や出産が、いまだに女性への圧力になり、子どもを持つと、仕事をあきらめざるを得ない状況がある、日本の高学歴晩婚化の、反証になるというのは、まったくの見当違いだと思います。

私は高学歴化による価値変容説は誤りだと書いたのです。高学歴の女性が子どもをほしがらないわけじゃないよ、ということ。したがって、日本女性の高学歴化は出生力低下と関係しないといいたいのであって、意見対立は存在しません。

結局、このかたは、少子化対策は、どうするのがいいと、言うのでしょうか?

予算の都合がつき、企業が存続できる範囲内で、「いわゆる少子化対策」をやればいいのではないですか。しかしそれを巨大な社会的コストを支払って大規模に展開するだけの価値があるかというと、「さてどうでしょうね」と。

未婚や晩婚が原因だというのですが、それに「国家権力介入」とは、どういうことなのでしょうか? (ムッソリーニ・ファシストの、家族政策のようなものを、考えているのでしょうか? これだけでは、なんとも言えないですが。)

実現可能性のないジョーク、として具体的な提案をすれば「30歳までに恋愛結婚できなかったら強制的にお見合いを設定される。最大30人の中から必ず1人を選ばねばならない」「結婚後5年以内に子どもを産むか養子をとるかしないと税金が重くなる」など。念のために書けば、私は冗談が現実のものとなることを望みません。あまり効果がないとしても、「いわゆる少子化対策」の枠から出ない方がよいと思います。未婚・晩婚を解消できても、不幸になっては意味がないですから。

「いや、理想論ですよ」と答える他ないが……(2005-12-29)

「最低限の衣食住と義務教育」というものが、各人にとっての「最低限の衣食住と社会ステイタス」を意味していないというのが問題。これは客観的な事実だ。

価値観を所与のものとして操作不可能と規定しているわけですよね。私は各人の価値観は、主観的に設定されているものだから、「最低限の生活」の定義は各人が自分の意志で変更できるだろう、といっている。本当にそう? と問われれば、「いや、理想論ですよ」と答える他ない。「死なない程度」まで「自分が許せる最低限」の水準を下げられる人は多くない。残念ながら。

けれども、そうだとすると、先行き暗いですね。どこかで目を覚まさないと、破綻以外の結末はないです。今、目覚めることができれば軟着陸への道が開けるのに、それは不可能らしい。

数値上普及したようにみえても、それでもって生活水準が上がっているとはいえないのが電化製品の引き起こすマジックだろう。20年前に携帯電話をもとうと思えば数十万の資金が必要だった。今は初期投資は0円だ。つまりコストが違う。いまの携帯も数十万かかるというのなら、普及率の向上=生活水準の向上だろうが、そうではないから等式があてはまらない。

これもまた評価軸の設定の問題。

ようするに bar さんは、多くの人は「絶対評価」ではなく「相対評価」でしか世の中を見ず、しかも海外には目を向けない……という現状を、変えようのない現実と定義しているわけです。私は、それは主観的に変革しうるものだと考えていて、だから「絶対評価」で向上した現在の生活水準に「満足」することは可能だと主張しているのです。

「過去は貧乏、いまは豊か」ではない実態がそこにはある。過去なら農村共同体や家族というものが子育ての労力を分散し、特定の人に負担がかかることを低減していた。しかし、今は違う。子どもをとりまく家族の核家族化が進んだ第一ステージをさらに過ぎ、母親すら働きに出なくてはならない「ゼロ家族化」の状況にある。これが子どもを育てることをさらに難しくしている。ある意味、都会で子どもを育てるのは砂漠で育てるのに似ている。昔なら周りにオアシスがあったのである。

ゼロ家族化を不可避の現実と捉える bar さんと、価値観の転換で脱出可能と見る私の違いがここにも!

「なぜ人々はゼロ家族化を求めるのか?」と私は問うているのです。生きていくだけなら、お金には困っていないはずなのです。私の手取月給は15万円ちょいですが、東京暮らししていて別に何の不自由もない。毎月の財政は黒字、ボーナスは全額貯金、それで年額120万円の貯金という生活。ようは、そんな生活では不満だと思うから、あるいは子育てよりも仕事の方が楽しいから、ゼロ家族化するだけの話。私の母は清貧ライフに満足でき、仕事が嫌いで子育てが好きだったので、父の薄給(現在の私よりは少し多い)に文句をつけたことは一度もなく、幸せにケチケチ専業主婦ライフを送ってきたわけです。もちろん、現代人がみなそれを真似できるとも、真似すべきだとも、私はいいません。

あるいは、田舎的共同体を「うざい」と思う価値観を後生大事にしているから、生活の孤立化が進むのであって、そんな価値観を捨ててしまえばすぐにでも共同体を復活させることはできるわけですよ。これも非現実的な話ですけどね。やっぱりみな、昔に戻りたくなんてないのでしょう?

そういうわけで、私の記事と bar さんの記事は根本的なところにすれ違いがあるだけで、別に私の主張は bar さんの主張と相反するわけではない。「私の理想は**です」「でも現実はこうですよね?」「そうですね」それだけ。

補足:出産前倒し仮説(2006-01-13)

スウェーデンは、少子化対策の有無にともなう出生率の変動が0.5-0.6の幅で、ほかの国より大きくなっています。

(「国際比較報告書」の図表3-3-11)

政策に効果があるかどうか、というだけなら、調査対象国の中では、いちばんきわだっていますが?

少し詳しく説明しますと、出生率の上昇にはいくつかの可能性が考えられるのです。1.出生力が真に回復した 2.出産支援政策による出産の前倒し 3.悪要因の排除による出産解禁現象 ……主なものだけでも3パターンあります。短期的な出生率の上昇だけでは、国民の出生力自体が上昇しているかどうかは判断できません。

スウェーデンでは、強力な少子化対策によりいったんは急激に出生率が回復しましたが、反落しています。そのため、出生率の急上昇は単に出産前倒しが大規模に発生したに過ぎないという説が強いのです。早めに1人目の子どもを生んでも、第2子、第3子を生み育てるとは限りませんよね。出生力とは、「生涯に一人当たり何人の子どもを生み育てるか」で判断するものなので、単年度の出生率から、出生力を想像すると認識を誤ります。

つまり、本質的にはスウェーデンの出生力は回復しておらず、したがって急上昇した出生率が反落したのは当然の帰結であった、という意見が根強いのです。ただし注意していただきたいのは、スウェーデンの出生率反落は出生力の低下を意味しないという点です。前倒しがあったから帳尻合わせで反落しただけ、という可能性があるのです。したがって、スウェーデンの事例が成功か失敗かは、反落後の出生率の推移を慎重に見守らねば判断できません。

そんなわけで、スウェーデンの事例から「いわゆる少子化対策」を過大評価することも、過小評価することも、避けるべきです。ただ、スウェーデンの方が日本よりも出産・育児休暇制度が充実していることは明らかだし、もし社会的コストの問題さえ解決できるなら、スウェーデンの制度を日本にも導入すればみな喜ぶだろう、とはいえます。

日本人が現在以上に要求する子育て支援の水準を引き上げない限りは、制度の充実は確実に日本の出生力を下支えするはずです。結局、ここがポイントで、せっかく苦労してよい制度を導入しても、「まだ**が実現されていないから子どもを作りません」とドンドン新しい要求が出てくるのであれば、思うような成果は上がりません。社会の有限性をよく認識して、人々が「足るを知る」ことが少子化問題の解決に不可欠である所以です。

仕方なく人は生きているのか(2006-01-13)

むかしは、子どもがたくさん産まれていたのは、これにお簡単に言えば、多くの女性にとって、結婚して家庭に入って、子どもを産む以外に、生きようがなかったからです。

専業主婦が増えたのは高度成長期に「終身雇用制」のサラリーマン階級が確立されてからのことで、それ以前は一部の上流階級の女性だけが「仕事」を免除されていました(彼女らは家事も免除されていた)。社会の発展は貴族の特権を次第に庶民へと広めていきますが、「専業主婦」という生き方もそのひとつでした。

無論、特権の普遍化にあたっては「生演奏が雑音交じりのラジオ放送になる」といった低質化は避けられません。貴族階級の「奥様」と庶民の「専業主婦」の生活にも大きな格差がありました。最大の違いは家事をしなければならないこと。それでも50〜70年代には多くの女性が「お嫁さん」になって「仕事」から解放されることを望んだのでした。その後、家事を軽減する商品がどんどん家庭に入っていきますが、人々の満足水準は現実を上回るペースで上昇、女性の社会進出圧力が高まります。

私の父方の祖父母は農民です。入り婿の祖父は婚約後すぐに馬車馬のように働かされました。祖母は学校を出てからずっと畑で農作業していて、結婚して以降もその生活は全く変化しませんでした。むしろ畑は増えないのに家族ばかり増えていくので、いっそう仕事がきつくなっていったのです(手をかけるほど面積あたりの収穫量・収入は増える)。母方の祖父母は兼業農家で、祖父は薄給の公務員、祖母は毎日一人で黙々と畑に向かいました。祖父が亡くなった今も、畑を耕し続けています。

ところで、両親が幼かった頃、家事は誰がやっていたのか? それは老人と子どもの役割でした。父方の曾祖母が体調を崩すと、食生活は途端に貧しくなり、大鍋に煮たおかずが毎日、毎食、出されるようになったのでした。ご飯を炊くのは夕方だけ、朝は冷たいご飯が食卓に並びます。昼食はおにぎりと漬物でした。しかし父は、「あの頃は毎日楽しかったなあ」と振り返り、「おばあちゃんはいつも優しかった」と語り、実家に帰るといつもニコニコしているのです。

私の母は薄給の父の元に嫁ぎましたが、「仕事」から解放されて喜び、一度も父の給料にケチをつけることなく現在も家事だけやって過ごしています。生来、身体が弱かったこともあり、足るを知る人でした。月給20〜30万円、一時金込みの年収が300〜500万円、これで子ども2人を大学まで進学させ、自分たちの老後の生活資金まで貯めたのですから、立派な大蔵大臣です。私は母が「お金が足りない」と困った様子を見たことがありません。

両親の生き方から、私が何を学んだか。それは、「当人が幸せだと思えば、幸せなんだ」ということです。いつの時代も、「私たちは不幸だ」と語る人がたくさんいるわけです。現実は人々の欲望を追い越すことができない。とくに平成の低成長時代にも欲望の成長率は相変わらずで、「生活が苦しくなった」と思う人がどんどん増えています。昔の人々の生活の絶対的な貧しさは、現代を基準に評価すれば「お話にならない」レベルだといってよい。

生き仏のような私の両親でさえ、時代の変化に合わせて生活水準を上げてきました。今さら昔の生活には戻れない、といいます。幸せいっぱいだった(本人談)子ども時代の貧しい生活には、耐えられない身体になっている、と。もちろん私の曽祖父母らは、その貧しい時代に生き、貧しさの中で死んでいったのです。しかし彼らもまた、幸せな人生を送った。別に、嫌々で働いていたわけじゃない。仕方なく子どもをたくさん生み育てていたわけじゃない。

たんぽぽさんの歴史観を間違いというつもりは、ありません。かすかな違和感を、感じただけのことですから。

多くの女性にとって、結婚して家庭に入って、子どもを産む以外に、生きようがなかったといった書きように、私は賛同したくない。人は現実問題として価値観の奴隷だけれども、「そうではないはずだ」と信じたい。ひとりひとりの主体的な選択の結果として、多くの子を産み育てる女性が多い時代が形成された、そう考えたい。

現代人が過去の時代に生きているのではなくて、過去には昔の人が生きている。たんぽぽさんの文章は、少しそのあたりの配慮を欠いているような気がしたのです。(つまらないところにこだわってしまってすみません)

希望と現実(2006-01-16)

男性の質が劣化しているので、女性が安心して子どもを産めないのだ、という主張。「そうだそうだ」と思う人が多いだろうけれど、少し、注意が必要だと思う。コメント欄に寄せられている意見を引用したい。

男性が劣化したのではなく、女性の要求水準が上がったので基準に満たない「劣った男」が相対的に増えたと見るのが妥当でしょう。女性の要求の変化に触れずに一方的に男性が劣化したと主張するのはアンフェアです。

宮乃さんはごもっともと認めつつも、アンフェアといって訴えるより振り向かせるに効果的な方法はあるはずと回答しています。やはり「主観的に不幸な人々の少子化問題」なのです。いかなる出産・育児支援策も、長期的には要求水準の上昇に食い潰されていく。宮乃さんや bar さんのように、要求水準の上昇に歯止めをかける志向を持たない人々が多数派なら、少子化対策なんて成功するわけがない。

「第2の人口転換」はなぜ起こるのか。それは、要求水準の上昇に現実が追いつかないからです。希望は無限大、現実は有限。そして当面、希望を抑制する文化は弱体化し続けるでしょう。少子化対策が全く無意味だとはいいません。多少は人口減を減速する効果があるに違いない。ただ、超少子高齢化社会は必ず到来します。新時代に対応する準備こそ、本気で取り組むべき課題だと思います。